2012年03月13日

落選のお知らせ!

コモスクエアさんのキャラクターを募集していたので、応募しました。
採用されたデザインは着ぐるみにもなるとのことだったので、気合いを入れて考えて作ってみましたが・・・結果は、落選でした!
現在、上位の8作品を対象に最終選考がなされており、選ばれたキャラクターは5月頃にデビューするとのことですよ。
詳しくはコモスクエアさんのブログを見てみてくださいね。

わがコロモッチに投票してくれた皆さま、この場を借りてお知らせさせていただくとともに、お礼申し上げます。
コロモッチに清き一票を入れて下さり、どうもありがとうございました。
(下記は応募用紙に添付したプレゼン資料の一部です。入選作品については著作権、知的所有権、使用権がコモスクエアさんにいくようですが、落選作ならばもちろん自由。せっかく作ったのでここに発表させていただきます!)



あ、その前に、コロモッチについていくつか質問をいただきましたので、ここで回答します。



Q.あれはどうやって描いたのか?
A.描線はすべてエクセルの"図形"を用いて作りました。

Q.そういう仕事をしているのか?していたことがあるのか?
A.無縁です。しかし絵を描くのはこどもの頃から好きでした。特に小学校低学年の頃は、カレンダーや日めくり、包装紙の裏にいろんな絵をやたらと書き殴っていました。その後はほとんど絵を描いていませんが、今回やってみたらそれなりにできました。

Q.あのストーリーは何なのか?
A.応募にあたりストーリーをつける必要はありませんでしたが、キャラクターを作っているうちにどんどん浮かんできました。

Q.まったく可愛げがないが。
A.はい、あえてそうしました。コモスクエアはこどもが楽しめる場所というよりは、大人が集う場所だと思いました。ゆるキャラ全盛の中、あえてそっけない造形にして差別化を図ろうとしました。

























コロモッチ ストーリー  "Coromotcchi Story"


その昔、養蚕が盛んなまちがありました。          
蚕は一本の糸をはきだしつづけ、やがてまっ白いまゆをつくります。人々は米俵のような形をしたまゆから絹や綿をつくりだして売ることで、生活の糧を得ておりました。
やがて世の中がめまぐるしく移り変わり、日本の養蚕産業は衰退してしまいました。そのまちも例外ではありませんでしたが、幸い自動車を作る会社の工場を誘致できたので、新たな時代の流れにうまくのることができ、豊かな暮らしをする人が増えました。  
元々は、田畑を耕したり、山の木を育てたりする暮らしぶりをしていた慎ましやかな人たちでしたから怠けたり奢ったりすることなく、毎日一所懸命働いたそうです。    
働き口があるため人口はどんどん増え、車の会社も順調にぐんぐん大きくなりました。
誰もが忙しい時代の到来です。
ぼやぼやしていたら、皆に置いていかれそうでした。
昔に比べて娯楽は増えましたが、子を産み育てて、家を建て、成人させたら結婚させて孫たちのことまで考えたら、とても長い時間遊んでいる気にもなれません。
仕事が第一。
美しく移り変わる山里の季節をゆったり楽しむ時間さえ、泣く泣く削ったものでした。    
これでいいのだ、これでいいのよ。これが幸せだ、これが幸せね。働け、働け。    
                   
そう呪文のように呟く人々の口からは・・・いつしか真っ白い糸が出ていました。
途切れることなく長く続く糸。
無意識のうちに吐き出し続けているのでした。    
蚕がまゆをつくるのは、自身が成虫に変化するためのいれものを用意するためです。
蚕の生育過程は一齢、二齢・・・という呼び方で数えますが、五齢を超えると糸をはいてまゆをつくり、その中でさなぎとなって体を変化させます。
ということは、まちの人々も蚕で言う五齢のような状態に差し掛かり、何か変化を迎えようとしているのでしょうか?  
しかし人々が吐き出した白い糸は、それぞれの体を包み込むほどの量ではありませんでした。そうなる前に皆の糸はプッチン、と途切れてしまったのです。      
そのまちで暮らしたり働いたりしている人々は、自身の身を削って糸を吐いていたことを自覚していませんでしたから、その後は何事もなかったかのように暮らしました。    
                   
糸はどうなったか?              
実は、人々が知らないところで糸が集まって、ひとつのまゆを作っていたのです。    
そのまゆは、そのまちでの仕事と暮らしに疲れた人々が吐いた糸で作られたものでした。  
まちに関わる人々の何ともやるせない寂しい思いが糸となって紡がれたものでした。  
そのまゆを頭にのせ、ある日突然このまちの片隅に誕生した生命体がありました。    
生命体の名前は、コロモッチ。            
五年程前、この街の駅前に建てられたビルがコロモッチが雨風をしのぐ住みかです。  
コロモッチの胴体にはビルの窓のような模様があり、それは時折光を放ちます。耳はまるで自動車のタイヤのような形で、子供が話しかけるとクルクルまわります。お尻にはウインカーとブレーキランプ。コロモッチの態度はクールです。媚びや愛想は振りまきません。コロモッチに口は見当たらず何も語りませんが、子供だけでなく我々大人が話しかけるとクールな態度をやめて腕組みをし、話をとことんよく聞いてくれます。表情はないけれどその健気な姿から、我々を理解し尊重しようとしてくれていることがわかります。コロモッチの姿を運よく見られた人々は、コロモッチのまるでお餅のような体つきを見て何となく安心し、歩いたり止まったりするたびにチカチカ光るお尻に微笑み、そして最後に「それにしてもあのまゆはいったいなんなんだろうな?なにが詰まっているのだろ?」  
と首を捻るのでした。              

ゆるキャラ全盛の時代に気合いの入ったクールなアーバンキャラ。それがコロモッチです。  















  


Posted by Toyota Nordic Walking Movement  at 17:25Think & Do

2012年03月13日

"発芽玄米ごはん" はじめました








この記事の主役は、これ↑ではなくて






向かって左の、ごはん。
これは発芽玄米を炊いたもの。



発芽玄米ごはんをはじめた、と言っても、僕は定食屋さんではないので誰かに振る舞うわけもなく、僕が食べ始めた、ということです。
えーと、とにかくいろいろありまして・・・



某所で栄養指導なるものを受けまして、今日から一日三食のうち二食はこれをいただくことになりました。
もちろん三食とも発芽玄米でも良いようなのですけど、まあ、まずは二食でOKのようです。
ちなみに初日である今日の朝は普通のごはんをチョイスしたので、昼と夜は発芽玄米を食べます。
僕は休日、奥さんは仕事。
よってお昼ごはんは自分で作りました。
その中身は



・発芽玄米ご飯 200g
・じゃがいも+いかの塩辛+バター
・茹でたブロッコリー
・茹でたインゲン
・プチトマト
・りんご
・コーヒー



こんな感じ。

わが家は炊飯ジャーではなく土鍋でごはんを炊いています。
玄米を炊くにはコツがいるかなと思いましたが、指導してくれた方が教えてくれたとおりにやったら、さして気を使わずうまく炊けました。
歯ごたえがあるのでよーく噛まねばなりません。咀嚼が大事。
でもそれが良い、とのことです。
じゃがいも+いかの塩辛+バターは、バターは小さなこどもの小指の先程度、塩辛の量も少なめにしました。
ブロッコリーとインゲンは、奥さんが自身のお弁当のおかずとして今朝作ったものの余りです。
プチトマトは洗っただけのものを八つほど、口に放り込みました。
りんごはまるまる一個。








これをきっかけに、食の日記でもつけようかな、と思っています。
記録することは、食べ過ぎの防止や栄養バランスに気をつけるようにするためにはきっと良いはずですから。
(今日のような休日でない日にノート等に書き留めるのは大変なので、携帯電話の何らかの機能にてメモするつもりです。)



すぱん、とカットしたりんごの写真を撮っていて思い出しました。
ある方の言葉を。

やむなく人を切るときは、すぱんと一太刀で切ること。

切るといっても本当に刃物で切るわけではなくて、あくまでも例え。
奇麗な切り口で無ければ駄目。切り口をあとでぐちゃぐちゃにいじっても駄目。なぜなら、切った部分をまたくっつけることがありえるから。またはくっつけなければならないことがあるから。
きゅうりなど水気のある野菜をすぱん、と切ったあと、切り口をピタリと合わせると再びくっつきます。
あのイメージです。

切るときに、切った後にくっつけることまで考えて切るなんて、何だか矛盾した話です。
しかし、その人いわく、人を切るときはそうするべきだよ、そういう風に切れないんだったら切るな、と。

やむなく誰かと口論するとき。
そんなときに自分が一手をくりだすときは、切れ味鋭くすぱんとやれ、ということです。
切れ味が鈍い刀をつかってはいけない。
「まだまだ痛め足りない」と、切ったあとをまた切りつけたりしてはいけない。
切ったあとに塩を揉みこむようなことをしてはいけない。
その方はそんなことをおっしゃっていました。

僕は普段はかなりおとなしいけれど、プチっとくるとついつい連打を繰り出しがちで、かつ最終ラウンドまでやりきらないと気が済まなくなるタイプなので、この話を聞いて大いに反省しました。
喧嘩相手と二度と会わないかどうかなんて、わかりません。ばったり会うと後味が悪いもの。まして日常でよく顔をあわせる人とは、できるだけうまくやりたいものです。
しかしそれでも、ひとこと言わねばならないときはやってきます。そんなときは、あとでぴたりとくっつくほど鋭い切れ味ですぱん、とやる・・・要は相手がその場でハッと黙るぐらいの、そして後で反省をするぐらいの一言を放たねばならないということです。
そして、自分の言うことが相手よりも正しくなければ、そんなことにはなりません。要は、電光石火の一太刀を放てる大前提は、相手が間違っている場合のみ、なのでした。ということは、簡単に刀を振り回せない、ってこと。



話は変わって・・・

心に深く染みるような、頭の中の靄がさっと晴れるような、そんなセリフを誰かに言われることがたまにあります。
今回の一太刀の話も、そういう感じがしました。
でも怪しい人から聞いた話ではありません。そこは誤解なきよう。

今朝もテレビで怪しい人に洗脳されてしまったタレントさんのことを報じていました。ああいう輩は本当に良くない。ターゲットとして目をつけた人間の心をぶち壊します。ぶち壊して言うことをきかそうとしますから。
心をぶち壊された人は必要以上に自分を責めます。責めだしたら思いのままに操ることができるらしいのですよ。

僕はよくわからん洗脳セミナーとか怪しい宗教とかは気配がするだけで逃げ出すほど大嫌いで、またそれらを感じるセンサーも高感度です。いや、普通のセミナーで勉強したり普通の宗教を信心している人たちであっても、その程度によってはちょっと苦手なのです。
そうなったのには理由があって、一生の友人だと思っていた人たちがそういうのに飲みこまれてしまい縁を切ることになったり、とても身近な人がおかしくなったりした経験をしたからです。

僕は基本的に無宗教です。
初詣でお伊勢へ行き、家族や親戚が亡くなれば地元のお寺のお坊さんを呼んで仏式のお葬式をするぐらいで。そういうのは宗教とは呼ばないし、何かを信心しているとは言えませんから。
もしも途中で、「あ、この人は・・・」と思ったら必要以上に深い付き合いにならないように気をつけます。
ですから、誰かから"目から鱗"のすごくためになる話を聞かされたとしても、すぐにはうなづきません。
よーく咀嚼してから、だんだん不味くなってきたら吐き出すし、良いものだったらゴックンと飲みこみます。

そう、まるで発芽玄米をよく噛んでから飲み込むのと同じようなことをするのです。






(話がだいぶ飛びましたー。そんでもって最後の一行で前後を無理やりつなげてみまました。ここまで読んでくれた方、わけがわからない展開の文章で、ごめんなさい。お粗末でした。)

















  
タグ :発芽玄米


Posted by Toyota Nordic Walking Movement  at 14:12食の備忘録

2012年03月13日

血が巡る話




かれこれ五年近く愛用していたデジタルカメラが壊れました。

CanonのIXY DIGITAL 910IS です。
壊してしまったのは僕自身。

晴天の休日。
某公園の広い敷地にてノルディックウォーキングをしているときのこと。
よせばいいのに左手にこのカメラを持ったまま歩いていました。
良い景色があったら写真を撮ろうと企んでいたのです。
ノルディックウォーキングのポールとともにカメラのストラップを握りしめていたのですが、服装を直したくて、よりによって地面に砂が巻かれている場所で立ち止り、ポールを手から外そうとポールのボタンを押しました
カチンと音がして手からポールが離れる瞬間、いつもの癖で握っていた手を開いてしまったのです。

ポールは僕の太腿の上にポトリ、カメラの方はレンズから砂の上にポトリと落ちました。
いつでも撮れる状態、つまり電源オンにてレンズが伸びて露出している状態でした。
慌てて拾い上げたのですが、電源ボタン等には触っていないのに何かの拍子でレンズがキュイーンとカメラの中に引っ込もうとしました。

キュイー・・・ガリガリガリガリガリ・・・ガリ・・・。



























こうして上の写真の状況に至ったという次第。
(ネジ留めの場所などを間違えて後で組み立てられないと困るので、携帯電話のカメラで写真を撮りながら、分解しました。)

頑張れ、カメラくん。今助けてあげるよ。気をしっかり持て。痛くないか?
そう念じながら、ネジを外して部品を取り去り砂を除去しました。

しかし。

レンズは何とか動くようになりましたが、完全には引っ込みません。まだ砂が詰まって邪魔しているようです。
これ以上、無理にレンズを動かしたくないけれど、直ったかどうかを試すには、電源をオンオフしてレンズを動かすしかないのです。
こうなるともっと細かく分解しなければなりませんが、ちょっと勇気が要ります。
再び組み立てられたとしても正常な動作や撮影をしてくれるかどうかは未知数です。
確かなことは自分でやらずに修理に出す方が直る確率が高いこと、そしてその際かかる料金は新たに一台買える金額であるということ。

修理の手を止めた僕は、このあたりでは一人勝ちだがよその都府県ではあまり見かけない電化製品量販店のエ○デンさんへ車を走らせました。
型遅れにて超特価ワゴンセールとなっていたLUMIXをゲットしさっさとレジへ。(最近のIXYは嫌いなのでした。)
これで写真を撮るのには困りません。

帰宅した僕は、再び壊れたIXYを手に取りました。
修理の続きです。
迷いはふっきれました。



僕の愛機。
特にこのカメラとの約五年の付き合いのうちの前半分の期間、東京にいたときも、東北にいたときも、常に僕のかたわらにいてくれました。




このまま死なせてなるものか。

出来る限り自分で直す。
しかし自分で直せなければ、修理に出す。
修理に出すとき、お金のことは気にしない。だってもう別のカメラを買ってあるのだから。
買い買えと修理の時期をずらしたとしても、痛い出費となることに違いは無いけれど、気分は違う。

僕はカメラを二台持っている。
一台は新しいがもう一台は古い。
古い方は、古いというだけでカメラとしてまだまだちゃんと使えていたのに、僕が不注意で壊してしまった。
壊れたカメラを直しているあいだは、もう一台の方を使えば良いからあせらず修理すればいい。
自分で直せなければ修理に出すまでだけど、修理に出せばたくさんのお金がかかってしまうから、修理をする手にも気合いがみなぎる。

このネジで、こことあそこの両方を効率よく押さえてある・・・。
あのネジを先に外さないと、ここも開かない・・・。
この隙間にあれをあらかじめ挟んでおかないと、うまくしまらない・・・。





僕の脳と目と指先に、勢い良く血が巡るのがわかります。























  


Posted by Toyota Nordic Walking Movement  at 10:43Favorites